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検索結果 475件が該当しました

観音寺

 慈眼山と号し、浄土宗に属する。  慶長12年(1607)、梅林和尚が一条室町に創建した。その後、天明の京都大火に遭って、建物をはじめ記録を焼失してしまったので、正確な寺史は困難となっている。  伝えによれば、山門は旧桃山城の牢獄の門を移建したものといわれ、罪人を釈...

北野天満宮

 菅原道真公を祀り、一般に「北野の天神さん」と呼ばれ、学問の神として崇められている。  天暦元年(947)の創建と伝え、天徳3年(959)藤原師輔(もろすけ)によって社殿が整備され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉が、付近一帯の松原で北野大茶会を催した。  本殿...

京都所司代上屋敷跡

 ここより西方大宮通り辺まで(北は丸太町通り、南は竹屋町通り)の一帯の地で、現在そのほとんどが待賢小学校用地となっている。  所司代の名称・役職は、室町幕府の侍所(さむらいどころ)にはじまり徳川幕府に受け継がれた。徳川時代の所司代は関が原合戦の直後設けられ、皇室・公...

禁門変長州藩殉職者墓所

 この墓地の中に、元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変、甲子(かつし)の変ともいう)ご戦死した長州藩士の墓がある。  攘夷派の先鋒であった長州藩は、この前年文久3年8月18日の政変で京都での地位を失ったが、長州藩は依然攘夷派の拠点となり、勢力...

護王神社

 桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂(わけのきよまろ)とその姉広虫(ひろむし)を祭神とする神社。もとは、神護寺境内にあったが、明治19年(1886)この地に移された。  広虫が慈悲深く、京中の孤児を養育したことにより子育て明神と呼ばれ、育児...

光清寺

 心和山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。寛文9年(1669)伏見宮貞致(さだゆき)親王が御生母慈眼院殿心和光清尼公のために杲(こう)山和尚を開山として創立されたのが当寺の起りである。  天台・華厳・眞言・禅の四宗を兼ね、はじめ声実庵と称したが、宝永3年(1706)堂...

護浄院

 常施無畏(じょうせむい)寺と号し、天台宗の寺で通称清荒神という。  本尊の清三宝大荒神は千二百余年前、光仁天皇の皇子開成親王の作といわれ、摂津の国にあったのを後小松天皇の勅により僧乗厳(じょうげん)が醒ヶ井高辻の地に勧請し、初めて清荒神といわれた。その後、慶長5年...

御殿医奥渓家下屋敷跡

 この茅葺(かやぶき)の門は長屋門(ながやもん)といい、かっては間口11間(約20メートル)もあった江戸時代中期の建物である。  持主の奥溪家は、九州大友氏ゆかりの家で、江戸時代のはじめ、江戸にでて医学を修め、元和6年、東福門院(後水尾天皇の中宮、徳川二代将軍秀忠の...

此付近慶長天主堂跡

 この付近に、慶長9年(1604)頃に復興されたヤソ会の天主堂教会があった。京都でのキリスト教布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正15年(1587)豊臣秀吉が宣教師追放令をしき、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の...

此付近薩摩藩邸跡

 現同志社構内の敷地一帯は、幕末に薩摩(鹿児島)藩々邸があった所である。京都薩摩藩邸がはじめに置かれたのは中京区錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久2年(1862)にここに大きな藩邸を設けたのである。敷地の広さ、5,805坪(約1万9千平方メートル)、9棟の建物...