ゆかりの人々
 

1. 道 昌(どうしょう)

道昌画像(法輪寺蔵)
 空海(くうかい)高弟の道昌(どうしょう)は承和3年(836)頃に決壊した大堰川の修築を指揮し、架橋したといいます。その橋は後に法輪寺橋と呼ばれ、渡月橋の始まりとなりました。渡月橋北詰を少し西へ行くと、道昌が大堰を修理したという記念碑があります。
 また中世の伝承では、道昌が100日間の虚空蔵求聞持法を修し、満願の日に井戸で水を汲んでいると明星が天空より降りそそいで、虚空蔵菩薩が来迎したとされています。その井戸は「葛ノ井」「明星水」「落星水」などと呼ばれ、いまも法輪寺の境内にあります。
 

2. 角倉了以(すみのくらりょうい)

 嵐山といえば華麗で優美、公達(きんだち)の憩いの場という印象が強いのですが、実は江戸の初めに、一人の骨太な実業家が活躍した場でもありました。
 水大名といわれた角倉了以は、高瀬川など何本もの川の開削工事を手がけ、朱印船(しゅいんせん)貿易にも進出しました。川の開削はどれも非常に困難な工事で、新事業への周囲の抵抗も強いものでしたが、彼は持ち前のフロンティア精神で次々と挑戦していきました。その原点が亀岡から嵐山までの大堰川開削事業です。
 遺言によって作られた了以の木像が大悲閣に安置されています。法衣に石割斧、立ちひざ姿の老人の眼光は鋭く、今もなお気迫が伝わってくるようです。

3. 赤染衛門(あかぞめえもん)

法輪寺山門
  法輪寺には、多くの歌人や祐筆家(ゆうひつか)が参詣しています。平安中期の女流歌人で、「栄花(えいが)物語」の作者としても有力視されている赤染衛門もその一人です。
 参詣かたがた法輪寺を訪れた衛門は、晩年の一時期を同寺に住持した比叡山の僧で、歌人としても著名な道命(どうみょう)と、和歌の交流を持ちました。
 衛門は道命亡きあと、「道命阿闍梨(あじゃり)なくなりて後、法輪寺に詣うでたりしに、住みし房の桜の咲きたりしをみて」と詞書(ことばがき)し、「誰れ見よとなほ匂ふらん桜花 散るを惜しみし人もなき世に」と詠んでいます。

4. 西  行(さいぎょう)

法行像(無量院)
  「新古今集」などで知られる西行法師はもと北面の武士で、23歳で世を捨てて僧となり、各地を旅しています。その出家した寺が大原野勝持寺と伝わります。境内鐘楼の傍らにある「西行桜」は西行が庵を結んだ際に植えたものといわれます。現在は3代目とされていますが、境内の多くの桜とともに「花の寺」の由来といいます。
 嵐山の西光院(さいこういん)前には「西行法師旧跡」の碑が立っています。西行の庵が始まりで、ここにも境内に「西行桜」があるほか、開山上人像とされる小さな旅姿の西行木像があります。
 また樫原(かたぎはら)の無量院(むりょういん)境内には、旅姿をした瓦製の西行像があります。

5. 足利尊氏

勝持寺仁王門
 足利尊氏の六波羅(ろくはら)攻略で、大枝(おおえ)は大きなターニングポイントでした。
 『太平記』によれば尊氏は、鎌倉幕府の命で山陰街道を鳥取に向かうと見せて亀岡の篠(しの)村でUターン。篠村八幡宮で戦勝祈願をして再び「大江山の峠」を越え、六波羅に攻め込みます。
 この折、たまたま大原野勝持寺に立ち寄ったとする説があります。住職から「勝持」としるした旗竿を贈られ、縁起がよいと喜んだといい、歴代の足利氏が勝持寺を庇護したのは、この縁のためとされています。
 応仁の乱の戦火を免れたという同寺仁王門付近はうっそうとした竹藪に囲まれ、往時をしのばせています。

6. 佐々木道誉(どうよ)

勝持寺
 室町期に派手や伊達(だて)、奔放(ほんぽう)の意で流行した言葉に「バサラ(婆娑羅)」があります。このバサラ大名の代表格とされるのが佐々木道誉です。『太平記』には、大原野勝持寺を舞台に道誉のバサラぶりが描かれています。
 道誉は京のすべての芸人を雇い、桜咲き乱れる勝持寺で大茶会を開きます。寺の高欄(こうらん)に金箔、道に敷き詰めたじゅうたん、根元に花器をしつらえて桜の巨木を生け花に見立て、香を一斤まるごと焚(た)くなど派手な演出のドンチャン騒ぎで「世に類(たぐい)なきあそび」だったと。
 道誉は、こうした豪快な武将だったようです。

7. 在原業平(ありはらのなりひら)

業平塔(十輪寺
 平安初期の歌人で六歌仙(ろっかせん)のひとりとして知られる在原業平は、晩年を大原野の地で過ごしたといわれ、その伝説が各地に残ります。
 「なりひら寺」と呼ばれる十輪寺は業平が隠棲した寺と伝わり、境内裏山には業平の墓とされる宝篋印塔があります。毎年5月28日の業平忌には、三味線に似た三弦を使っての「三弦法要」が営まれています。
 また、上羽町(うえばちょう)あたりに業平の母が住んでいたともいわれ、同町の入野神社近くの薮中にある3基の五輪石塔も、それぞれ業平の父母と業平の墓ではないかといわれています。

8. 桂昌院(けいしょういん)

桂昌院像(善峯寺
 徳川5代将軍綱吉(つなよし)の生母として知られる桂昌院は、応仁の乱以後荒廃していた数々の寺社の再興に力を尽くし、いまも各地にその跡が残っています。
 善峯寺は、現在の建物の多くが桂昌院の寄進によるものです。京都市街を望む「けいしょう殿」に桂昌院坐像があり、桂昌院廟所にはその遺髪が納められているほか、寺宝館「文殊堂」に1200余点のゆかりの品々を収蔵しています。
 金蔵寺も現存する建物は桂昌院の再建によるもので、ここにも境内に桂昌院廟所があります。
 「花の寺」勝持寺法輪寺なども、桂昌院が再興に尽力したと伝わります。