エッサ・ヨッサ
 
鴨川陶化橋付近
 高瀬川鴨川の合流点あたりを「釜ヶ淵(かまがふち)」と呼びます。元は北に約300メートルほどの地点をいい、石川五右衛門が三条河原で釜ゆでの刑に処せられた時の釜がのちに流れ着いたところとも、臨済宗の開祖栄西禅師が川に沈んでいた河原院(かわらのいん)の鐘を引き上げた場所で、「鐘淵(かねがふち)」が「釜ヶ淵」になったともいわれています。
 ところでこの鐘は「エッサ・ヨッサ」というかけ声のルーツでもあるとか。鐘が重くてなかなか引き上げられなかったので、栄西が人々に「栄西長首座(ちょうすざ)」と声をかけさせたといい、それが転じてのちに「エッサ・ヨッサ」になったと伝わります。
 京への入口は諸街道の出発点
 
車石(上鳥羽小学校校庭)
 南区は昔も今も交通の要衝(ようしょう)の地です。「羅城門」があった付近は京の七口(ななくち)の「東寺口(とうじぐち)」にもあたり、諸街道の起点・終点になっていました。主な旧街道を歩いてみましょう。

鳥羽街道
 九条通の羅城門跡より千本通を南へ浄禅寺(じょうぜんじ)を経て小枝橋を渡り、淀の宮前橋(みやまえばし)付近(伏見区)に至ります。平安京造営時に造られ羅城門から一直線に伸びていて、「鳥羽作り道」とも呼ばれました。江戸時代には、溝を掘ってレールの役割を果たした「車石(輪型石)」が敷設され、大坂や瀬戸内などからの物資を京に搬入する牛車などで賑わいました。「車石」の一部は上鳥羽小学校と陶化小学校に残されています。現在、この街道の役割は少し東の国道1号が担っています。

西国(さいごく)街道
 羅城門から西へ、桂川を渡って向日町、長岡京、大山崎を経て西宮まで至り、山陽道につながる主要街道でした。九条御前(くじょうおんまえ)交差点から西に斜めに入る細い道が旧街道で、桂川では久世橋ができる明治まで、石原から渡し船を利用しました。久世橋西詰を南に入った分岐点には「右西国街道」と記す石標があります。現在はその座を国道171号に譲っています。

竹田街道
 現在の京都駅八条口付近から南下、勧進橋で鴨川を渡って伏見港に至り、水路で大坂につながった街道です。江戸時代には鳥羽街道と並んで「車石」が敷設された主要道でした。現在も、一部は国道24号として幹線道路です。

 ゆかりの人々
 
守敏大師開山堂
(西寺境内)
ライバル伝説
 羅城門をはさんだ東寺空海西寺の守敏のライバル伝説は、数かずのエピソードとなって今も語り継がれています。神泉苑での雨乞い合戦、矢取地蔵の逸話など、いずれも空海の勝利で終わっています。
 東寺と西寺は、ともに国家の鎮護を願って建立されたものです。しかし、東寺は真言宗総本山として栄え、かたや西寺は100年余りで廃れてしまいました。ふたりのライバル伝説はそうした東西の寺の明暗を語っているのかも知れません。それとともに、「弘法大師」信仰を日本各地に拡げた真言宗の民衆救済的な面によって、このようなライバル伝説が人々の中に長く生き続けてきたのでしょう。

『十六夜(いざよい)日記』と阿仏尼(あぶつに)

阿仏塚(大通寺境内)

 阿仏尼は、わが子冷泉為相(れいぜいためすけ)と夫為家(ためいえ)の正妻の子との相続争いの訴訟のために鎌倉に赴き、このときの紀行文が『十六夜日記』となりました。中世文学を代表する作品の一つになっています。また歌論書「夜の鶴」も書いており、為相に始まる冷泉派歌学の礎を築いた人物ともいえるでしょう。大通寺にはその墓といわれる阿仏塚があり、また直筆と伝えられる和歌(軸装)も残されています。

菅原道真誕生の地
 文人政治家の家に生まれた菅原道真は、政敵藤原時平(ときひら)に敗れ、延喜3年(903)失意のうち太宰府で亡くなります。やがて都では次々と災いが起こり、道真の怨霊によるものだと恐れられ、道真は天神として祀られるようになりました。現在の吉祥院天満宮は、もともと菅原家の邸宅があった地です。その周辺には、道真のほか、道真の父是善や祖父清公ゆかりの史跡なども多く、道真の霊廟(れいびょう)もここに建立され、天満宮になったといわれます。

羅城門の鬼と源頼光・渡辺綱(つな)

源経基を祀る六孫王神社

 源頼光(「ライコウ」の呼名で親しまれています)は清和源氏の始祖源経基の孫にあたり、文武に優れた武将として知られています。またその家臣で武勇の誉高い「四天王」の一人、渡辺綱が羅城門で鬼に兜を掴まれ、暗闇のなか刀を抜きざまにその腕を切り落とした、という有名な逸話も残っています。この羅城門の鬼や大江山の酒呑童子、土蜘蛛など、頼光と綱たちが平安の都で活躍する「妖怪」退治の逸話は、当時の人々の畏れや願いを今に伝えています。

 猫の曲がり
 
通称「猫の曲がり」
 東寺の南東角あたりは「猫の曲がり」と呼ばれ、魔所のように考えられていたそうです。日当たりのよいこのあたりに猫が住み着いたから、あるいは捨てられた猫が野良猫となってたむろし不気味がられたからという説や、東寺の築地(ついじ)塀の角に留蓋(とめぶた)として置かれていた方角の四神(ししん)の一つ「白虎(びゃっこ)」が猫の顔のように見えたところから、ここを「猫の曲がり角」と呼んだなど、いろいろな説があります。
 現在の大きな交差点の様子からは想像できませんし、いまは「白虎」もありません。それに、まるで魔物扱いされては猫にも迷惑な話ですね。