「宗匠になりすました狐」
  相国寺境内に宗旦(そうたん)稲荷という小さな祠(ほこら)があります。千利休の孫で千家の基礎を固めた宗旦になりすまし、あちこちの茶会に出没したという宗旦狐を祀っています。近世の茶道書『喫茶餘録(よろく)』は、大意次のように記してこれを伝えています。「相国寺に年老いた狐が住んでいた。晩秋になると、狐は宗旦に化けて近くの茶人宅へ夜ごと出かけ、茶を飲んで菓子を食いあらした。はじめはだまされた人々も後に正体を知り、宗旦狐と名づけて皆で化かされて遊んだという」ほかにもこの狐は、雲水の姿に化けて托鉢の列に加わっていたという話などが伝わっています。近年では、茂山(しげやま)社中の新作狂言「宗旦狐」として演目に加わっています。
 「上京ゆかりの茶の湯と菓子の文化」
 
太閤井戸と「大茶湯之跡」碑
太閤井戸と
「大茶湯之跡」碑
■天神さんから茶道の道へ
 千利休(せんのりきゅう)によって侘び茶として大成された茶の湯。利休以来の家元が集中する上京区ならではの、茶の湯体感ツアーをしてみましょう。
小川通界隈
小川通界わい
 「天神さん」と親しまれる北野天満宮参道の三ノ鳥居の近くに「太閤井戸」があります。このあたりは天正15年(1587)、豊臣秀吉が北野大茶湯を催したところで、「北野大茶湯之跡」碑も立っています。天満宮では毎年12月1日、これにちなんで献茶祭(けんちゃさい)が行われます。
 千本今出川にある浄土院には、おもしろいエピソードが伝わっています。秀吉はこの大茶湯のおり、浄土院に立ち寄り茶を求めましたが、大茶人・秀吉に茶を献じるのは恐れ多いと住職は白湯を差し出しました。秀吉はますます「茶を」と求め、ついには「湯沢山茶(ゆたくさんちゃ)くれん寺」と異名をつけたといいます。
 堀川通寺之内を東へ入り、人形寺(宝鏡寺(ほうきょうじ))を過ぎて小川通を北に向かうと、そこはまさしく「茶道の道」。表千家「不審菴」のどっしりとした表門、裏千家「今日庵」の檜皮葺き兜門(ひはだぶきかぶともん)が並びます。連れ添って歩く着物姿のご婦人は、茶道具のお店が気になる様子。本法寺前町という地名の由来になっている本法寺に参り、そのまま西に出ると堀川通り。すぐそばの裏千家センターには茶道(ちゃどう)資料館があります。
樂美術館
樂美術館
 小川通りを今出川よりさらに下がると東側の住宅街に、武者小路(むしゃこうじ)千家「官休庵(かんきゅうあん)」が静かなたたずまいを見せています。
 その一筋西の油小路(あぶらのこうじ)通りには、樂家の伝統を伝える樂美術館があり、代々の樂茶碗などが展示されています。小川通り界わいには樂家のほかにも千家十職(じっしょく)家)(*注)が点在しています。
 今出川通りを鴨川に架かる賀茂大橋付近まで東へ向かうと、北村美術館があります。創立者北村謹次郎(きんじろう)氏収集の茶道美術品を展示し、茶会の雰囲気を味わうことができます。
 さてこのあとは、茶の湯の文化とも深いかかわりを持つ「京菓子」の文化にも触れてみましょう。
  ■独特の発達をとげた京菓子
北村美術館
北村美術館
 「京菓子」という呼び方には、「京都の菓子」だけではなく「高級な」という響きが込められます。それは、平安のむかしから京都の和菓子がたどった伝統の重みゆえでしょうか。
 遣唐使によって大陸から伝来した唐(から)菓子は神社仏閣の供物や平安貴族の食卓をいろどる必需品となり、京都における菓子の歩みは常に宮中と深いかかわりをもってきました。菓子職人たちは常に技術を競い、献上(けんじょう)菓子の創作に情熱を傾けたといいます。
 さらに、近世以後の茶の湯の確立とともに茶道家元のお膝元で、その趣にはいっそうの磨きがかけられていきます。
 こうして京菓子が大成したのは江戸時代元禄頃といわれ、当時の代表的な京都案内書『京羽二重(きょうはぶたえ)』では諸職の名匠として亀屋、鶴屋、松屋など20数軒の菓子所が紹介されています。
 同志社大学から北に少し上がった京菓子資料館(ギルドハウス京菓子)では、平安以来の京菓子の文献や小道具などの歴史、工芸菓子の優美な姿などに触れることができます。
京菓子資料館(館内展示)
京菓子資料館(館内展示)
 上京にはこのような、「京菓子」の歴史・技術を受けついだ菓子司を多く見受けます。優雅でバラエティー豊かな銘菓たちと出会える、上京散策の楽しみのひとつです。

 京菓子は今も手仕事、伝統工芸です。伝承された職人さんの技が生み出す京菓子を味わい、一服の茶をいただくとき、きっとあなたを至福のひとときへと誘うことでしょう。


(注)千家十職……表千家・裏千家・武者小路千家が指定した十職の茶碗師、釜師、塗師、指物師、金物師、袋物師、表具師、一閑張細工師、柄杓師、土風呂師の家系。

 美の工房「西陣」散歩
 

《西陣の生い立ちから学ぼう》

山名宗全邸宅跡碑
山名宗全邸宅跡碑

 西陣織の始まりは、渡来人である秦(はた)氏が、山城の国に養蚕と絹織物の技術を伝えた5、6世紀頃まで遡ります。やがて平安京ができると、朝廷は、織部司(おりべのつかさ)のもとに織物技術者、工人(たくみ)たちを集め、綾や錦などの高級な織物を生産させました。それは、いわゆる官営工房で、今の黒門通上長者町付近にありました。
 しかし平安中期になると、工人たちは自分たちで織物業を営むようになります。彼らは大舎人町(おおとねりちょう)に集まり、大陸から新技術を取り入れながら公家や寺院などに織物を納めました。鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと珍重される絹織物を生産しました。
 15世紀、応仁の乱で町は荒廃しました。しかし戦乱が治まると、織物業は現在の大宮今出川付近で再開されます。その地は応仁の乱のとき山名宗全(やまなそうぜん)の西軍の本陣がおかれたことから、人々はそこを西陣と呼び「西陣織」という名前ができました。現在では、「西陣」「西陣織」は西陣産地の商標でもあります。

「高機」の図
「高機」の図

 室町時代の中期には高機(たかはた)という技術を取り入れ、紋織を始めました。紋織(もんおり)とは先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す織り方で、西陣織の基礎となりました。
 江戸時代はじめ、町人文化の台頭を背景に西陣はさらに繁栄します。徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院(けいしょういん)のようなヒロインも登場しました。しかし、その後は幕府の奢侈(しゃし)禁止令や2度の大火、飢饉(ききん)などにより西陣は衰退、明治を迎えます。

ジャガード
ジャカード

 明治は西陣の一大変革期でした。進取の精神の伝統は文明開化に素早く反応し、明治五年人材をフランス・リヨンに派遣、ジャカード織物などの技術を取り入れて、 西陣織は近代化に成功、危機を脱しました。その後は高級絹織物の大衆化を図り、日本の近代絹織物の一大生産地として今日に至っています。

 

 

《西陣織を体験・実感してみよう》

織成館
織成館・つづれ織り体験

 西陣の歴史を学んだら、今度は西陣を体感してみよう。織物を実際に織ってみれば、さらに深く西陣を知ることができるでしょう。
 西陣界わいには体験施設が充実しています。それぞれ歴史的な資料も展示してあるので、歴史のおさらいもできます。
 堀川今出川、堀川通に面して立つ近代的な建物は、西陣織工業組合が運営する西陣織会館です。そこには無料公開の史料室があります。また同館では100台の特製ミニ手機(てばた)を備え、これを使って約1時間の機織り体験ができます。伝統工芸士の資格を持つプロに教えてもらいながら、パッタンパッタン。できあがりは想い出の作品となります。テーブルセンターにしてもよし、壁掛けにしてもよし。使い方はあなたしだいです。小学生以上で予約が必要。

松翠閣
松翠閣

 今出川通浄福寺(じょうふくじ)を北に5分ほど行くと、機屋がならぶ町並みのなか大黒町(だいこくちょう)で、べんがら格子と瓦屋根が美しい織成舘(おりなすかん)に出会います。ここでは小型の手機を使って、すくい織に挑戦することができます。プロの指導をうけながら約3時間。織り上がった織物は世界で1枚しかないオリジナル作品、おみやげにお持ち帰りください。予約が必要。
 また帯地を表装した掛軸や屏風などを展示する織インテリア松翠閣(しょうすいかく)(寺之内通大宮西入)も見逃せません。

西陣
かつて西陣織の職人さんたちが
住んでいた路地の一角

 

 

《西陣を歩こう》

 手織り体験の思い出を胸に、機の音の聞こえる西陣を歩いてみましょう。人が働き、生活する生きた町「西陣」の息づかいが体感できます。

染殿の井
染殿の井

 西陣は町全体が工房です。そして工程ごとに細かく分業されているのが特徴です。どの家も何かしら西陣織にかかわっていて、職住近接の暮らしがありました。かつてはどこの路地を入っても、路地で遊ぶ子どもの声と機を織る音が聞こえてきたものです。
 そんな路地の1つが、智恵光院通をはさんで本隆寺の東側にあります。機の音こそ聞こえてきませんが、かつての西陣の町家そのままに軒を連ねています。今は、若い芸術家たちが住む、「手づくり作家路地」になっています。
 

手作りの「杼」製作所
手作りの「杼」製作所

ここから西に向かうと雨宝院(うほういん)に出会います。ここの境内には「染殿の井(そめどののい)」といって、この井戸の水を使うと、とてもよく染まるといい伝えられてきた井戸があります。
 もうしばらく町を歩いてみましょう。

 一つの通りを歩いてみると、織物店のほかに、機料(きりょう)・紋紙(もんがみ)・絣(かすり)・糸染(いとぞめ)・撚糸(ねんし)などさまざまな業種の表札や看板が目に入ってきます。

千本釈迦堂付近の機料店
千本釈迦堂付近の機料店

 五辻(いつつじ)通を千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)に向かって行くと北側に、西陣らしい落ち着きを感じさせる町家がみえます。ここでは、昔ながらに手作りの杼(ひ)を製作しています。杼(ひ)とは緯(よこ)糸を通す舟のような形をした道具のことです。

 今は西陣に数軒もないという手織り関係の機料店にも出会いました。この店は明治34年に開業した当時のままの建物で、屋根瓦の上には手織り道具が飾ってあり、目を引きます。また笹屋町(ささやちょう)界わいにも、西陣らしさを残した機屋建(はたやだて)が点在しています。

 さて、最後に京都市考古資料館の前にやってきました。この建物は、大正期に建てられた洋風建築で、かつては西陣織物館でした。その入口横には、三浦周行(ひろゆき)博士の撰文になる「西陣」の碑が残されています。碑の前に立てば、西陣の歴史を受け継ぎ未来を拓こうとする西陣の人々の心意気を感じることができるでしょう。

「西陣」の碑 笹屋町界わい
「西陣」の碑 笹屋町界わい


 
 「牛さん」
   北野天満宮ヘ参拝すると、参道から何体もの牛の像に出会います。境内三光門(さんこうもん)前の「黒牛」像をはじめ「赤目牛」「母牛」などその数約20体。「頭が良くなりますように」、「足の痛いのが直りますように」などと牛を撫でた手で自分の頭や足を撫でています。撫でるとご利益がある「撫で牛」たちです。
 天神さんと牛、その取り合わせはどこからきたのでしょう? 1つには天神さんである菅原道真が牛年生まれだから。2つ目には道真の遺体を運ぶ途中で牛車が動かなくなり、しかたなく埋葬した地が太宰府天満宮の起源だから。3つ目には農耕の神だから……。
 いずれにしても全国の天満宮に鎮座する牛たち、今日も老若男女の手で撫でられています。
 「ちょっと気になる妖しい界わい」
 
晴明桔梗紋
晴明桔梗紋
京都には、さまざまな伝説が今も息づいています。なかでも上京は平安京の大内裏(だいだいり)があった地であり、権力をめぐるおどろしい抗争の果てに、鬼や妖怪にまつわる伝説が生まれました。
 大内裏の北東の角、鬼門(きもん)にあたる晴明(せいめい)神社は魔物から都を護った大陰陽師安倍晴明を祀っています。ここは晴明邸跡だったとも伝えられています。一筆書きの星型をした晴明桔梗紋(五芒星(ごぼうせい))は魔除けの呪符(じゅふ)で、晴明はこれを使って鬼門から魔物が進入しないよう都を護ってきたのです。
一条戻橋
一条戻橋
 そこから少し歩くと一条戻橋(いちじょうもどりばし)。晴明が式神(しきがみ)12体を封じ込めた橋といわれています。平安の昔、この橋はこの世とあの世をつなぐと考えてられていたようで、あの世から戻る「蘇生」にまつわる話が伝わっています。修験行者浄蔵(じょうぞう)が父である漢学者三善清行(きよゆき)をここで生き返らせた話は有名です。
 鬼もこの橋に現れました。渡辺綱(つな)が橋の上で美女に化けた鬼に襲われた話はよく知られています。綱は自分をつかんだ鬼の腕を切り落として助かりますが、その腕とともに綱が落ちたところが北野天満宮の境内だと伝えられています。
 その北野天満宮の西隣りの観音寺にあるのが、渡辺綱が仕えた源頼光(よりみつ)を悩ました土蜘蛛(つちぐも)の塚「クモ塚」。苔むした石灯篭の残欠はひっそりと立っていました。もとは一条七本松(しちほんまつ)辺りにあったそうです。
クモ塚
クモ塚
 一条通は都の北の端、洛中と洛外を区切る境界でした。それは都と異界が出会う場所、人知の及ばぬ現象が起こる場所とされたのでした。一条通、内裏の西端に立つ大将軍八(だいしょうぐんはち)神社には、おびただしい大将軍神像が1点を見据えて並んでいます。都人たちはどのような思いで神像を刻んだのか、魔物への畏れが伝わってくるようです。