板橋白菊の井戸
人びとの憩いの場
 伏見板橋小学校はかつての金札宮(きんさつぐう)のあった場所といわれ、白菊の翁伝説などが伝えられています。平成元年、六年生が卒業記念に井戸の復活を計画し、卒業生の井戸掘り名人に頼み、地下水を掘り当てることに成功。『板橋白菊の井戸』と名付けました。子どもたちはもちろんのこと、名水を汲みに訪れる人びとのコミュニケーションの場として親しまれています。

清涼院(せいりょういん)のサルスベリ
赤い花咲く、お亀ゆかりの古刹
 清涼院の庭には夏から秋にかけてサルスベリが赤い花を咲かせます。徳川家康が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神職志水加賀守宗清(しみずかがのかみむねきよ)の娘お亀を特に愛し、他の側室にはばかってここに住まわせたといわれています。お亀は慶長(けいちょう)5年(1600)に家康の第九子の五郎太をこの庵で出産しました。五郎太は後の尾張大納言義直。清涼院にはお亀と五郎太の像が残されています。

太閤堤(たいこうづつみ)
豊臣秀吉による大築堤工事
填島堤
 豊臣秀吉が文禄(ぶんろく)年間(1592〜96)に伏見城を築城する際、物資の輸送をはかるため宇治川と巨椋池(おぐらいけ)を分離させ槙島堤(まきしまつつみ)や太閤堤(たいこうつつみ)を築きました。さらに大和街道を豊後橋(ぶんごばし)(観月橋)に直結させることによって、奈良への道が短縮されました。現在の向島駅近くまでの近鉄京都線がほぼそれにあたります。

淀川三十石船(よどがわさんじゅっこくぶね)
伏見と大坂を結んだ旅客船
都名所図会に描かれた淀川三十石船
 淀川を往来する幕府公認の船は過書船(かしょぶね)と呼ばれました。三十石船もそのひとつで、淀川を就航する旅客船でした。朝・夕の2度「船が出るぞー」の掛け声とともに出港。その情景は落語「三十石」や浪曲「森の石松代参詣り」などでユーモアたっぷりに描かれています。また船頭が唄った三十石船唄は観光ガイドの役も担っていました。

伏見の酒
良質の水が醸す
御香水
 伏見はその昔「伏水(ふしみず)」とも書かれ、伏見七ツ井と呼ばれた井戸があったことからも豊かな地下水に恵まれた所です。伏見の水は中硬度のミネラル水で、カルシウム・リンなどが適度に含まれ酒の低温仕込みに適しています。口当たりの良いまろやかな伏見酒はこの良質の地下水によって育まれます。酒どころとして全国にその名を馳せている伏見には、酒蔵生産会社が約30社あり、おいしい伏見酒がつくられています。

京野菜
京野菜のふるさと伏見
伏見とうがらし
 京の伝統野菜の半数近くは伏見に歴史をもっているといわれています。有名な「伏見とうがらし」は江戸時代以前から稲荷周辺で栽培されていました。伏見にルーツを持つ野菜には他に「うど」「桃山みょうが」「花菜」「桃山大根」「淀大根」などがあります。これらの野菜には今でも栽培が続けられているものもあり、私たちの食卓を賑わせてくれます。

花傘
伏見祭の名物花傘行列
花傘
 秋に行われる御香宮の神幸祭は「伏見祭」とも呼ばれ、洛南随一の大祭として知られています。伏見祭の名物のひとつ花傘行列は、お迎え提灯で、宵宮がクライマックス。昔は村ごとに風流花傘を競ったそうですが、今でも町内ごとにそれぞれ工夫をこらした花傘をつくって、祭の期間中、独特の囃子言葉とともに練り歩きます。

四ツ辻の四つ当り
城下町の名残りを今に伝える
四ツ辻の四つあたり
 四ツ辻の四つ当りは伏見御坊(ごぼう)(東本願寺伏見別院)の門前にあります。伏見の城下町づくりは京都の街にならっており、いわゆる「碁盤の目」状になっていますが、四ツ辻の四つ当りはどの道から来ても撞木形になっていて突き当たってしまいます。迷路や袋小路をつくって軍事警固上の便宜をはかったためこのような形状になったものといわれています。

城南宮(じょうなんぐう)の神紋(しんもん)
日・月・星の旗印
神紋
 木々の緑に朱色もあざやかな城南鳥居の島木(しまぎ)に、日と月と星をかたどった「三光の紋」の錺(かざり)金が輝いています。社伝によるとこの三光の紋は、神功(じんぐう)皇后の軍船の旗印だったといわれています。非常に珍しい神紋で、他には福井県の古社に見られるだけです。日本海から、神功皇后出身地の近江を経て畿内に連なるルートが浮かび上がり古代のロマンを感じさせます。

道元(どうげん)
道元誕生の地、久我(こが)
道元
 曹洞宗の開祖の道元は比叡山で天台宗を学び、栄西について禅を学びさらに宋へ渡り曹洞禅を修めました。帰朝後建仁寺に入りましたが、2年後深草の極楽寺廃虚の安養院(あんよういん)に閑居し、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を著し多くの信徒を得、やがて禅院の興聖宝林寺を創建。寛元(かんげん)2年(1244)には越前国(福井県)に永平寺を建て、弟子の養成に尽力しました。道元の父久我通親(みちちか)は豪族の久我氏の一族で、屋敷跡に道元の像を安置する誕生寺が建っています。

淀大根
淀の冬の風物詩
淀大根
 淀の西方、現在の久御山(くみやま)町に一口(いもあらい)と呼ばれる場所があります。ここで栽培されている丸大根を淀大根と呼んでいます。冬になるとこのあたりの農家が川水を利用して一斉に大根を洗い、きめの細かい真っ白な淀大根を軒先に並べる様子は、淀の冬の風物詩として知られています。

淀古城(よどこじょう)
淀殿の住居した城
淀古城(旧淀城)の一部といわれる妙教寺
 名をお茶々(ちゃちゃ)といわれた淀殿。父は近江小谷城主の浅井長政(ながまさ)、母は織田信長の妹であるお市の方。天正(てんしょう)16年(1588)頃、秀吉の側室となり、淀城に入り鶴松を生み、淀殿と呼ばれるようになりました。この城は現在、石垣の残る淀城ではなく納所にあったとされ、妙教寺はその一部といわれています。伏見城の造営によって城は使命を終え、文禄3年(1594)に破却されました。