伏見稲荷大社
稲荷山の西南に位置する弥生中期の深草遺跡(西浦町一帯 )は京都盆地において
代表的な弥生時代の遺跡として鋤(すき)や鍬(くわ)などの木製農具が出土し、
早くから農耕が営まれていたことを物語っています。
深草が文献に登場するのは『日本書紀』。6世紀の中頃に秦大津父(はたのおおつち)が
深草の里から輩出したという話や「深草屯倉(みやけ)」のことが記されています。
深草の地は平安遷都以前より京都盆地を開発した渡来人秦氏の拠点で
稲荷社が創建されたのは8世紀のはじめとされています。
紫陽花の咲く藤森神社は「深草屯倉」に関係し、
平安初期には王城鎮護の大将軍社が置かれ、
産土神(うぶすながみ)として人びとの心のよりどころとなって信仰を集めた古社です。
平安時代になると深草の地に仁明天皇(にんみょうてんのう )の御陵がつくられ、
菩提を弔うため寺としたのが嘉祥寺(かしょうじ)でした。
9世紀末に藤原基経(ふじわらのもとつね)・時平(ときひら)が
建立したのが極楽寺で、宝塔寺一帯がその跡といわれています。
歌聖・藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)やその子、定家が歌に詠んだ深草は
鼓笛隊(藤森神社)
京都から少し離れた田野が広がる遊興の地、歌枕の地でした。
鶉(うずら)鳴く、草深き里が兵舎や連兵場に変わっていったのは明治41年陸軍第十六師団が置かれてからのことで
戦後、広大な陸軍施設は大学や病院、公園、
住宅などに大きく変貌していったのでした。