伏見は京の南の入口
伏見街道
   洛東の五条橋口、現在の東山区から伏見に至る街道は、伏見街道(本町通)と呼ばれていますが、伏見からは京へ至る道として、京街道とも呼ばれています。ドイツ人医師のケンペル(1651〜1716)は大坂から淀を経て伏見街道を通った時のことを『江戸参府旅行日記』に、「(淀を出発して)二時間程馬を進め、午後2時には伏見の町に着いた。町筋はわずかであるが幅広く、長い通りもあり…(中略)中央にある本通りは伏見から京まで続き、これらを区別することは難しく、むしろ伏見は京の郊外の町と思ってもよいくらいである」と、町の様子を記しています。賑わう伏見稲荷大社門前では伏見人形や深草うちわなどを買い求めたかもしれません。藤森神社から東へ、JR藤森駅前を通り谷口町へ向い、大岩街道、山科勧修寺(かんしゅうじ)を経由して東海道に至る道は「大津街道」と呼ばれていました。旧家が残る藤森神社周辺や、谷口町付近は旧街道の面影が残っています。
 
京都市内と深草を結ぶ軍用道路
師団街道
   明治から大正のはじめにかけて深草の町に陸軍の施設が進出しました。明治31年(1898)に歩兵第三八連隊、第十九旅団司令部、京都連隊区司令部などが置かれ、明治41年にはこれらを統括する第十六師団司令部が設けられるなど、次々に軍の施設が設置され、静かな田園地帯は兵舎に変わっていきました。師団街道は京都の市街と軍の施設を結ぶ道路として開かれたもので、軍用物資や兵隊などを運ぶ重要な道でした。この師団街道と交差する道、第一軍道は龍谷大学深草学舎前の道で、第二軍道は師団司令部の置かれた聖母女学院に通じる道、また、第三軍道は師団街道から大岩街道(大津街道)に至る道で、いずれの軍道も京阪電車や疏水と立体交差する当時としては近代的なものでした。戦後、軍用施設は大学や病院、住宅などに変わり、新しいまちづくりに活用されました。
 
京をめざして越えた峠
木幡越(こはたご)え(大和大路(やまとおおじ))
   平安京から奈良へ向かう「大和大路」は、鴨川の東岸を南下し、稲荷を過ぎると、やや東へ向かい木幡山(桃山丘陵)を越え、宇治へと向かいました。大和大路は東福寺門前から稲荷までは、現在の伏見街道(本町通)とほぼ同じ道です。稲荷から南へは「伏見山寺宮近廻地図大概」によると今の宝塔寺、真宗院の門前を通り、大亀谷、木幡関へと向います。そこには、藤原塚(瑞光寺北、香神山古墳)、法華堂(後の深草北陵)が描かれています。紫式部が著した『源氏物語』には、薫大将が浮舟(うきふね)を伴い牛車で宇治へ向かう様子が描かれていますが、この木幡越えの道だといわれています。伏見城築城の際、この道が廃止され、以後、現在の墨染通が使われるようになりました。
 
深草人物列伝1
道元禅師(どうげんぜんし)
鎌倉時代のリベラリスト
   曹洞宗の開祖、道元(1200〜53)は4年にわたる宋での留学から帰り、京都の建仁寺(けんにんじ)に入り、後に深草に興聖宝林寺(こうしょうほうりんじ)を建立します。興聖宝林寺の位置は京阪深草駅の東方、深草大門町から薮之内町にかけてだといわれています。道元は説法の中で「深草の地の湖畔の美しさ」を述べました。秀吉の伏見築城までの鴨川は、今の竹田の東側を流れ、巨椋池(おぐらいけ)の水辺も北へ延びていたと考えられます。草深いイメージの深草に「水辺の美しさ」を現在に伝えてくれたのは道元だったのです。この頃から「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の著作がはじまり、道元はその中で「日本国にひとつのわらいごとあり」として、当時の仏教界の極端な女性蔑視を批判。人間は老若男女、道俗の区別なく「法」のもと平等であると説きました。その後、道元が上奏した「護国正法義」がが却下され、それらがもとで道元は深草を去り、越前に赴き永平寺(えいへいじ)建立となります。
 
深草人物列伝2
元政上人(げんせいしょうにん)
盛土に竹三本の簡素な墓
   瑞光寺(ずいこうじ)は別名『元政庵(げんせいあん)』と呼ばれ、開山は元政上人。江戸初期の元和(げんな)9年(1623)に京都の武士の家に生まれ、名は石井吉兵衛(いしいきちべえ)。はじめは彦根藩井伊家に仕えましたが、慶安(けいあん)元年(1648) 26歳の時、京都の法華宗妙顕寺(みょうけんじ)に日豊(にっぽう)上人を訪ねその門に入り出家。元政が理想としたのは世間の名利に背を向けて信仰三昧に生きる隠者の生活でした。一説に元政が江戸詰めの頃、吉原の三浦屋高尾太夫(みうらやたかおだゆう)と恋仲になり、婚約までしましたが仙台の伊達(だて)候が高尾太夫に横恋慕、高尾太夫は元政に操を立て自殺してしまい、世をはかなんだ元政は日豊上人の門下に入り出家したといわれています。瑞光寺にある元政の墓は清貧に甘んじたという人柄を表わすかのように、盛土に竹三本、一本は法(法華経)、一本は親、一本は衆生のためといわれています。元政の説く親孝行とは親に先立たないことでした。
 
深草人物列伝3
少将(しょうしょう)と小野小町(おののこまち)
深草少将の百夜通い
   うずら鳴く深草の里には絶世の美女、小野小町と深草少将の物語が伝えられています。六歌仙のひとり、山科の地に住まう小野小町に恋こがれ、求愛したのは深草少将。小町は「100日間私のもとに毎晩通ってくだされば、あなたの想いを受け入れましょう」と約束、少将は99日間通い、明日が100日という最後の晩、大雪のため凍死してしまいました。深草少将は実在の人物ではありませんが、その邸宅跡が墨染の欣浄寺(ごんじょうじ)だといわれ、小町の邸宅跡が山科小野の随心院(ずいしんいん)と伝えられています。欣浄寺には少将遺愛の『墨染の井戸』と訪れた小町が姿を映した『姿見の池』があり、今も悲恋の伝説が息づいているようです。