小野六流を歩く−醍醐名刹めぐりの旅−
 
三宝院庭園(秋)
 醍醐、山科には名刹が数多く点在しています。それらの寺には真言密教の中心的流派である小野六流が伝えられています。小野六流とは醍醐寺を中心とした三宝院(さんぽういん)・理性院(りしょういん)・金剛王院(こんごうおういん)(一言寺(いちごんじ))、それに隨心院(ずいしんいん)勧修寺(かじゅうじ)、安祥寺(あんしょうじ)の六系統。
 三宝院は勝覚(しょうかく)が建立、慶長(けいちょう)3年(1598)秀吉が醍醐の花見を行うため庭園や書院、本堂などを造営。庭と参道の間に立つ唐門(勅使門(ちょくしもん))は伏見城の遺構と伝えられています。
 この唐門から仁王門に続く参道から北に進むと理性院。ここは醍醐寺の塔頭のひとつで開祖は賢覚、門を入ると正面に石仏群が現れますが、これらは先代住職が境内の地蔵尊を集めたもの。枝垂れ桜の咲く春、雪の朝と趣のある古刹です。
三宝院唐門(春)
 醍醐三宝院前の旧奈良街道を南へ下った東方にあるのが金剛王院(一言寺)、創建は聖賢(しょうけん)、本尊は千手観音で阿波内侍(あわのないし)の念持仏(ねんじぶつ)と伝えられています。本尊の霊験はあらたかで、ただ一言一心に祈れば願いが叶うといいます。
 さて、醍醐寺の西方、大岩山(おおいわやま)山麓にある勧修寺は母、胤子(いんし)の菩提のため醍醐天皇が建立、開祖は承俊(しょうしゅん)。氷室の池は毎年正月2日、池に張る氷を宮中に献上、五穀(ごこく)の豊凶(ほうきょう)を占ったといいます。
 勧修寺から山科川を越え、旧奈良街道を南に行くと隨心院、この寺の開祖は仁海(にんかい)。現在の建物は慶長4年(1599)年の再建で庭の苔が美しく、小町化粧(こまちけしょう)の井戸や文塚(ふみづか)、小町晩年の姿を写した卒塔婆(そとば)小町像など、小野小町に関する伝承遺跡が数多く残されています。
林泉/弁天堂(冬)
 小野六流の最後の寺、安祥寺は天智(てんじ)天皇陵の東、開祖は恵運(えうん)で、仁明皇后藤原順子(じゅんし)の願いによって創建。本尊は十一面観音、五智如来(ごちにょらい)は平安時代のもので重要文化財のため国立博物館蔵(常設展示)となっていて拝観できないのが少し残念。古刹をめぐると平安の昔へタイムスリップ、いにしえの息づかいが聞こえてくるようです。
醍醐故事ものがたり
  茶壺道中(ちゃつぼどうちゅう)
 戦国の争乱が治まり、平穏な徳川時代に入ると、将軍家に宇治茶を献上することが制度化されました。これは元和(げんな)元年、家康が大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼしたときの戦勝祝いに、宇治の茶師が三袋の新茶を献上したのがきっかけで、毎年、献上するようになったといわれています。
 この「茶壺道中」が、江戸へ向かう際に通ったのが旧醍醐街道でした。「御茶壺通行の節は、かぶり物などを取って土下座し、牛馬を連れているときは、その口をしっかり取り、少しの無礼もないように致さねばならない」(現代文訳)と、京都町奉行所からは、厳しい御触書(おふれがき)が出されたそうです。
 ズイズイズッコロバシ
 ごまみそズイ
 茶壺に追われて
 トッピンシャン
 抜けたらドンドコショ
茶壺道中に追い払われ、戸をピシャンと閉めて家に逃げ込み、行列が通り抜けたらやれやれと外に出て、遊ぶ子どもたちの「わらべ唄」が今も聞こえるような気がします。

田植地蔵(たうえじぞう)
 昔、笠取(かさとり)に、信心深い親孝行な少年が住んでいました。母親を早く失ったあと、病弱な父親を助けて農業に励んでいましたが、その父親も病が高じて、ついに世を去ってしまったのです。ひとり残された少年は、田植えの時期がきても人を頼む手立てがなくて途方に暮れ、神仏に手を合わせていました。
 ある朝、少年が田んぼへ行くと、いったいどうしたことか、田植えはすっかり終わっているではありませんか。驚いた少年が、ふと足もとに目をやると、畦の青草が泥で汚れています。不思議に思い、泥の跡を辿っていくと、村はずれの地蔵堂へ出ました。祠(ほこら)を覗けば、お地蔵さまの手足は泥まみれで、右手に稲の苗が一本握られていました。お地蔵さまが田植えをして下さったのかと感激した少年は、ますます信仰を深め、仕事に精を出すようになりました。このことを知った村人たちも皆、お地蔵さまを崇め、手厚くお祀りしたということです。

(文・だいご読書グループ)