醍醐歴史人物紀行
 

1. 醍醐水を発見し醍醐寺を興す
  聖宝(しょうぼう)

 平安時代の初め、修行の場を求めていた聖宝が、笠取山(かさとりやま)に湧く水、醍醐水(だいごすい)を「醍醐味(だいごみ)なるかな」とうまそうに飲む地主神(じしゅしん)に出会い開いたのが醍醐寺です。醍醐味とは最上の味のことで、このあたりの地名の由来ともなっています。世俗の権威や権力に屈せず勉学と修行に励む聖宝の名声は高まり、宇多(うだ)天皇や醍醐天皇の帰依や保護を受け次第に大寺院へと発展。秀吉ゆかりの三宝院庭園や国宝の五重塔金堂三宝院唐門(からもん)のほか絵画、文書、彫刻など数々の文化財を持ち、世界文化遺産にも登録された名刹です。また聖宝が如意輪観音(にょいりんかんのん)とともに自ら刻んだ准胝観音(じゅんていかんのん)を祀った上醍醐の准胝堂は西国三十三ヵ所霊場(れいじょう)第十一番札所として知られています。
 

2. 醍醐の里人に歓迎された悲劇の老将
 源頼政(みなもとのよりまさ)

 高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)をまつりあげて平家打倒の兵を挙げた源頼政ですが、思うように軍勢が集まらず苦戦。近江から奈良へ逃れ再起を図ろうと以仁王、息子の仲綱(なかつな)ら50余騎とともに醍醐にさしかかると、里人は一行に粥を振る舞い、道を教えて助けたといわれています。この道が醍醐から日野山(ひのやま)の麓を通り、木幡(こはた)を経て宇治に通じる頼政道で、途中、一言寺や法界寺(ほうかいじ)など名所旧跡があり、今なお昔の風情をとどめた古道です。こうして宇治平等院(びょうどういん)にたどりついた一行は、追ってきた平家と『平家物語』の名場面として知られる橋合戦を繰り広げ、老身を押し気迫を込めて戦う頼政ですが多勢の平家には勝てず、宇治の地で自害して果てたのでした。

3. 花見を口実に醍醐寺を再興
 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

  「醍醐の春にあひ候(そうら)へ」と秀吉が北政所(きたのまんどころ)たちを醍醐の花見に誘ったのは慶長(けいちょう)3年(1598)が明けて間もない頃。さっそく秀吉じきじきの陣頭指揮が取られ、庭園には近くの山川から大石が運ばれ、全国から集めた700本の桜を三宝院から上醍醐槍山(やりやま)に至るまでの道筋に植えました。秀吉は花見の準備をかねて、応仁の乱以後荒廃していた堂塔(どうとう)の修理再建や財政的な援助をしていますが、それには座主(ざす)の義演准后(ぎえんじゅごう)が秀吉の関白就任のために大いに裏で働いた礼の意味がありました。この花見は秀吉自ら仕掛けた慶長の役(けいちょうのえき)の戦況がはかばかしくないこともあって、より華やかなものにしたかったのでは……。華麗さを極めたこの花見の5ヵ月後、秀吉は伏見城で没するのです。

4. 幕府成立の影に醍醐寺あり
 足利尊氏(あしかがたかうじ)

 室町幕府を開いた足利尊氏、その精神的な支えとして終生変わらぬ友情で結ばれていたのが醍醐寺の座主(ざす)賢俊(けんしゅん)。尊氏が鎌倉幕府を倒したあと、後醍醐(ごだいご)天皇に反旗をひるがえし京都での戦いに敗れて九州に逃れた時、北朝の光厳(こうごん)上皇との仲をとりもち朝敵の汚名から守ったのが賢俊でした。賢俊は親鸞や室町将軍義政夫人、富子などを出した日野一族の出身。尊氏の陣中にも赴き戦勝祈願をしたようで、数々の働きに対して将軍の座に就いた尊氏から醍醐寺に対して6万石の寄進と堂塔(どうとう)、伽藍(がらん)の修理や新三宝院(さんぽういん)(京都市梨樹町(なしのきちょう)にあったとされる)の建立などが行われています。醍醐寺には兄とも慕ったであろう賢俊の死を悼んで自ら筆をとった写経(しゃきょう)が残されています。

5. 公家理想の政治を行った名君
 醍醐天皇(だいごてんのう)

 醍醐天皇の母は山科の豪族宮道(みやじ)氏の娘胤子(いんし)。胤子は醍醐寺の聖宝(しょうぼう)に頼み、准胝観音(じゅんていかんのん)に祈願して誕生したのが醍醐天皇。そのため醍醐天皇が聖宝に寄せた信頼は厚く、醍醐寺の造営をするなどの保護をしました。また、醍醐天皇の皇后穏子(おんし)が皇子に恵まれなかった時も、再び准胝観音に祈り、朱雀、村上の両天皇が誕生したと伝えられています。府下最古の五重塔は皇后穏子の発願(ほつがん)により建立されたもので、朱雀、村上の両天皇により完成するに至りました。醍醐天皇は律令(りつりょう)政治の終末期に在位し、菅原道真や藤原時平(ときひら)を重用して、「延喜の治」と称される公家理想の政治を行った名君。その醍醐天皇は醍醐山の西、後山科陵(のちのやましなりょう)に眠っています。

6. 天下を揺るがせたファーストレディ
 日野富子(ひのとみこ)

  藤原氏の流れをくむ日野氏は代々将軍家へ正室を送り出す家柄、富子もまた16歳のとき、八代将軍足利義政に嫁ぎます。永く子宝に恵まれなかった義政が弟の義視に将軍の座を譲ろうと決めた直後、富子に男子が誕生。溺愛するわが子義尚(よしひさ)を将軍にするための争いが応仁の乱(1467〜)へと発展し、京の町を焼き尽くした戦乱は11年余り続きました。風流を愛する文化人の夫、義政に代わって富子は政務に就き、関所を設けて課税したり、高利貸などで富を集めるなど手腕を発揮しました。法界寺は伝教大師(でんきょうだいし)作と伝わる薬師如来像を安置している、平安時代末期に日野氏が建立した富子ゆかりの寺。この寺の東には日野一族の墓が残されています。

7. 日野一族の出身、宗教界の偉人
 親鸞(しんらん)

 善人でさえ往生できるのだから、罪深い煩悩を持つ悪人こそ仏の救いが必要と唱えた浄土真宗の開祖、親鸞聖人。9歳で出家し、当時最高の名門僧慈円(じえん)の弟子となれたのも、彼が貴族出身であったからで、親鸞は永承6年(1051)法界寺(ほうかいじ)を建立した日野資業(ひのすけなり)に続く日野一族の出身。父は有範(ありのり)といい、資業の五代後の子孫にあたります。このことから日野家の氏寺であった法界寺に幼い親鸞が参詣したであろうことが容易に想像されるでしょう。日野には産湯(うぶゆ)の井戸胞衣(えな)塚日野誕生院には親鸞6歳の姿を写した銅像があり、その下には得度式(とくどしき)に詠んだという和歌「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」が刻まれています。

8. 天下取りの野望、明智藪に散る
 明智光秀(あけちみつひで)

 織田信長の家臣だった明智光秀は、エリート街道をまっしぐらに突き進んだ有能な武将でした。しかしながら、秀吉と違ってプライドが高く、おもしろみに欠けるまじめな性格。主君の信長はそんな光秀に対し、次第に手厳しくあたるようになったのでしょう。光秀が抱き続けた信長への怨みは、やがて本能寺での謀反に至ります。しかし、天下を手中にするも、すぐさま秀吉率いる大軍に攻められる事態に。光秀は桃山丘陵をひたすら逃げて近江坂本城をめざしましたが、小栗栖(おぐりす)のあたりで落ち武者狩りにあい、絶命したといわれます。光秀の首は、家臣によって藪のなかに隠されました。その藪は現在「明智藪」と呼ばれ、石碑が建てられています。

9. 小栗栖で政権の行方を見聞
 定恵(じょうえ)

 小栗栖(おぐりす)にはかつて堂塔が立ち並ぶ法琳寺(ほうりんじ)(小栗栖寺)があったといわれ、この寺を創建したのが藤原鎌足の長男の定恵。鎌足は天智天皇の側近で大化の改新の仕掛け人、山科には別荘を持っていたといわれています。定恵の弟は藤原不比等(ふひと)であることを考えると、彼も当然政治との関わりは深いと想像されます。政権をめぐり血で血を洗う戦いが相次ぐ世のなかで、人間不信に陥り、出家したのでしょうか、それとも、僧をかくれ蓑に奈良朝(ならちょう)、近江朝(おうみちょう)とも近い小栗栖の地で、弟不比等のために情報収集をしていたのでしょうか、それを知る手がかりはありませんが、小栗栖には壮麗を極めたであろう法琳寺跡や瓦を焼いた窯跡が残されています。